仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう) 現代語訳


このように私は聞きました。

ある時、仏が、インド中部の毘舎離国(ガンジス河の支流ガンダキ河の東岸にあるベーサール)の大林精舎の重閣講堂にいらしたとき、諸々の出家男子にお告げになった。

三ヵ月後に,私はきっと、最後の悟りを得た境地に入るはずだ。

尊者阿難は、すぐに座より起って衣服を整え、手を合わせ合唱して、仏の回りを右回りに三度回り礼をして、

ひざまずき合掌して、注意深く如来を見奉り、まばたきもしなかった。

長老の摩訶迦葉と、弥勒菩薩摩訶薩もまた座より立って、合掌して礼をして、世尊の顔を見上げた。

その時に、三人の偉大な悟りを求める修行者は、口をそろえて同じように仏に向かって言った。

世尊、如来が世を去られた後に、どのようにして、生命のあるものすべてに悟りを求める修行者の心を起こさせ、

すべての生命のあるものに平等な救済と成仏を説く経典を修行させ、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れず、絶対平等の真実である善悪の報いによって、各人が受ける境遇を心に浮かべてよく考えさせることができるのか。

どのようにして、この上ない悟りを求める心を失わせないようにさせるのか。

どのようにして、また当然、煩悩を断ち切ることなく財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を離れることなく、生命活動や感覚の原動力を清浄にし、諸々の罪を滅して排除することが出来るのか。

父母が生み出した清らかな肉眼によって、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を断ち切らず、しかも巧みに諸々の障害になる物事を見させることが出来るのか。

仏は、阿難にお告げになった。しっかりと良く聞け。しっかりと良く聞け。よくこれを常に心に深く思え。

如来は、過去に耆闍崛山(ぎしゃくつせん)とその他の住む場所に於いて、すでに広く絶対平等の真実の道を思量し、識別していた。

今、この場所に於いて、未来の世の諸々の生命のあるものすべてのために、平等な救済と成仏を説くこの上ない教えを修行しようと願う者と、

普賢の修行を学び普賢の修行を実行しようと願う者の為に、私は今、当然、心に思っている教えを説くべきである。

もしも、普賢を見たり、または見ない者が、罪の数を取り除くことを、今、おまえたちの為に、当然広く明らかにするべきである。

阿難よ、普賢菩薩は、東方の浄妙国土にお生まれになった。

その国土の様子は、華厳経の中にすでに広く明らかにした。

私は、今この経に於いて、省略して解説しよう。

阿難よ、もしも、出家男子・出家女子・在家信士・在家信女・天人・龍・八部衆・一切の心をもつすべての存在で大乗経典を声を出して読む者、

大乗経典を修める者、大乗経典を切望する者、普賢菩薩の姿を見ようと願う者、

多宝仏の塔を見ようと願う者、釈迦族の聖者の如来と、その分身の諸仏を見ようと願う者、

六根から生じる迷いを断って清らかな身になろうと願う者は、当然、この物事を細心に分別して観察し道理を悟ることを学ぶべきである。

この物事を細心に分別して観察し道理を悟ることによる現世や来世に幸福をもたらすもとになるよい報いとは、諸々の悟りの障害となるものを排除して、不思議なまでにすぐれている姿を見ることができることである。

心を一つの対象に集中して、動揺しない状態に入っていないとしても、ただ声を出して経文を読んで覚えるために、心を専念して修習し、

心を捧げ続け、大乗経の修行から離れず、一日より二十一日に至れば、普賢を見ることをができる。

重大な悟りへの障害がある者は、四十九日後に見ることが出来る。またさらに重大な悟りへの障害がある者は、一つの人生の後に見ることが出来る。

またさらに、重大な悟りへの障害がある者は、二つの人生の後に見ることが出来る。またさらに、重大な悟りへの障害がある者は、三つの人生の後に見ることが出来る。

このように種々に、前世や過去におこなった善悪の行為による報いは、同じではない。この理由の為に、人によって異なる教えを説く。

普賢菩薩は、身の大きさは果てしなく、発する声は果てしなく、姿かたちは果てしない。

この国に来ようと願って、自分の思うとおりにできる超人的な能力を使い、身体を縮小して小さくなった。

この閻浮提の人には、善根を妨げる三つの障害がある理由のために、物事をありのままに把握し真理を見極める認識力により、変化して白象に乗った。

其の象には六つの牙があり、七つの足で大地の上の身体を支える。

其の七つの足の下には、七つの蓮華を生じる。

その象の色は、雪のように白く、全ての白の色合いの中で、最も優れている。

水晶や雪山(ヒマラヤ山脈)も比べることが出来ない。

象の身の長さ四百五十由旬(3150Km)、高さ四百由旬(2800Km)。

六つの牙の端に於いて、六つの沐浴の池がある。

一つ一つの沐浴の池の中に、十四の蓮華が生えている、池と同じ大きさである。

其の花の開く様子は、天の樹木の王のようである。

一つ一つの花の上に、一人の宝玉のような女人がいる。

顔の色は紅のようであり、輝きは天女を凌ぐ。

手の中に他の力に依存せず、五つの琴を生じさせる。

一つ一つの琴に、五百の楽器があり、それを以って伴奏させる。

五百の鳥がいる。鴨、雁、オシドリ、皆宝石の色であり、華や葉の間に生じる。

象の鼻に華がある。其の茎は、例えば赤い真珠のようである。

其の華は金色であり、まだ芽であって開花しない。

このことを見終わって、また更に犯した罪悪を告白して許しを請い、

真の心で本質をはっきりと見きわめ、大乗経を心に浮かべてよく考え、心を休めることなく絶え間なくするならば、華を見る、それは敷き詰められて、金色の光を放つ。

その蓮の花弁は、甄叔迦(けんしゅくが)の木に咲く花の色に似た赤い宝石や、不思議なほど神聖な珠玉によって花弁が出来ていて、金剛宝によって、雄しべが出来ている。

様々な姿となって現れた仏が、蓮の花びらに、お座りになっているのが見える。

多数の悟りを求める修行者が、蓮の華の雄しべに、お座りになっている。

さまざまな姿となって現れた仏の眉間から、また金色の光を放って、象の鼻の中に入る。

紅の蓮の華の色であり、象の鼻の中から出て、像の眼の中に入る。

像の眼の中から出て、像の耳の中に入り、像の耳から出て、象の頭の上を照らして、変化して金の花弁を作る。

象の頭の上に、三人の変化した人がいる。独りは金色の輪を持ち、一人は竜王の脳中から出て望みをすべてかなえるという珠玉を持ち、一人は金剛杵を持つ。

金剛杵を挙げて象に突きつけると、象はすぐに良く歩く。

脚は大地を踏まず、虚空を踏んで歩き回る。

大地から浮かび上がること七尺、しかも大地には印文のある足跡を残す。

足跡の印文の中には、仏が備えている三十二相の一つである、足の裏にある千の輻(や)をもつ車輪の形の文様がある。

一つ一つの車輪の形の文様から、大きな蓮の華が生える。

この蓮の華の上に、姿を変えて現れた一つの象を生じる。

また七つの足があり、大きな象に追随してゆく。

足を挙げ足を下げる度に、七千の象を生じる。

これらの全ての象は、大きな象に仕えて随従する。

象の鼻は、紅の蓮の華の色であり、その上でさまざまな姿となって現れた仏が、眉間の光を放っていらっしゃる。

その光は金色であり、前のように象の鼻の中に入り、

象の鼻の中から出て、象の眼の中に入り、

象の目から出て、還って像の耳に入り、

像の耳から出て象の頭の上に至る。

段々と上って象の背に至り、姿を変えて金の鞍になって、七宝によって飾られる。

鞍の四面に、七宝でできた柱があり、多くの種類の宝で飾られた台座となる。

台座の中に、七宝でできた一つの蓮の華の雄しべがある。

その蓮の華の雄しべは、百の宝石によってできている。

その蓮華の花びらは、竜王の脳中から出て、望みをすべてかなえるという大きな珠玉で出来ている。

一人の悟りを求める修行者が、結跏趺坐している。名を普賢という。

身体は真珠の色で、五十種の光を放っている。

光には五十種の色があり、これによって頭上を照らす。

身体の諸々の毛穴から、金色の光が流れ出る。

その金色の光の端には、計り知れないほど多くのさまざまな姿となって現れた仏がいらっしゃる。

諸々の仮の姿でこの世に現れた菩薩を従者としている。

象は静かにゆっくりと歩いて、大きな宝蓮華を降らして、仏道を修行する人の前にやって来る。

その象が口を開くと、象の牙の上に於いて、諸々の池の玉のように美しい天女は、つづみを打ち、楽を奏し、琴を弾き鳴らし、歌う。

その声は、何ともいえない美しさや味わいがあり、自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとする絶対平等の真実の道を賛嘆する。

仏道を修行する者は、見終わって歓喜し敬い礼拝して、またさらに非常に奥が深い経典を声を出して読み、

もれなく全てのあらゆる方面の計り知れないほど多くの諸々の仏を礼拝し、多宝仏塔と釈迦族の聖者の如来を礼拝して、供に普賢と不退の位に上った諸々の菩薩を礼拝して、

この誓いを立て、成就するように願う。

“「もしも、私の前世になされた善行によって得られる福徳があるならば、きっと普賢を見ることが出来るだろう。 ”

願わくは尊者遍普(普賢)よ、私に三十二相をそなえた仏の生身をお示しください」と。

この願いをなし終わって、昼夜、六回、十方の仏を礼拝し、犯した罪悪を告白して悔い改める教えを行い、

大乗経を読み、大乗経を声をだして歌うように読み、大乗のすべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという教義を思い、大乗の行為を念じ、

大乗の教えを銘記して忘れない者を恭しく敬って供養し、一切の人を視ること、あたかも仏が心の中に思い浮かべるようにし、諸々の生命のあるものすべてに於いて、父母が子を心の中に思い浮かべるようにせよ。

このように考えたとき、普賢菩薩は徳の高いりっぱな人相である眉間の長く白い巻き毛からすぐに光を放つ。

この光が現れるときに、普賢菩薩の身体は、姿などが整っていて威厳があり、紫金山(しこんせん)のようであり、端正で趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあり、仏のみが備える三十二のすぐれた身体的特徴を皆悉く備えている。

身体の諸々の毛穴から大光明を放ち、その大きな象を照らして金色に染める。

全ての姿を変えて現れた象も、また金色となり、諸々の仮の姿でこの世に現れた悟りを求める修行者も、また金色になる。

その金色の光は、東方の計り知れない世界を照らし、皆同じ金色となる。

南西北方、天地の四つの方角、上下も、またこのようである。

その時に、十の方向の一つ一つの方向に於いて、一人の菩薩が六牙の白象の王に乗っている。

また、普賢菩薩のように同じであり異なるところがない。

このように十方の計り知れない限りない中に満ちている姿を変えて現れた象も、普賢菩薩の神通力のために、法華経を受持しもっぱら読経する者には、皆あまねく見ることができる。

その時に、仏道を修行する者は、諸々の菩薩を見て、身も心も歓喜して、そのために礼を尽くして言った。

「一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を持つ者よ。私を哀れみ思いやるために教えを説きたまえ」と。

この言葉を説くときに、全ての悟りを求める修行者たちは、異口同音にそれぞれ清浄な大乗経を説き、諸々の詩句を作って、仏道を修行する者を賛嘆するだろう。

これを初めて普賢菩薩を心に思い浮かべて静かに観察する最初の境地と名づける。

その時に、仏道を修行する者は、この事を見終わって、心に大乗の経典を念じて、持ち続けてきた思いを失わないならば、睡眠の間に於いて、夢で普賢が彼の為に教えを説くのを見ることができる。

目が覚めているのと同じようであり、その心を安らかにしてなごやかに静めて、このように言う。

「おまえが声を出して読んで覚えた経は、この句を忘れ、この詩を忘れている」と。

その時に仏道を修行する者は、普賢の深い教えを説くことを聞いて、その教義の趣旨を理解し、常に念頭に置いて忘れない。

日々このようであり、その心に精神的な利益を徐々にもたらす。

普賢菩薩は、これによって、十方の諸々の仏を正しく記憶させ絶えず忘れさせない。

普賢の教えに随って、正しく考え正しく記憶して、しだいに心眼によって、黄金の姿で整っていて威厳があり趣深く何ともいえない美しさや味わいがある東方の仏の身体を見るであろう。

一人の仏を見終わって、また一人の仏を見るであろう。

このように、徐々に広く東方の全ての諸仏を見て、

鋭利に姿を心の中に思い浮かべるために、広く十方の全ての諸仏を見る。

諸々の仏を見終わって、心に歓喜を生じて、このように言う。

「すべての人間の平等な救済と成仏を願うために、仏を見ることができ、仏の力の為に諸々の仏を見ることができた。

諸々の仏を見たといえども、なお今だ明らかではない。

目を閉じれば見ることができ、目を開けば見失う。」

この言葉を言い終わると、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけ、広く十方の仏を礼拝せよ。

諸々の仏を礼拝し終わって、座禅を組み合掌して、この言葉を言え、

「諸々の仏や世尊は、十力(如実にすべての理と非理とを知る力、如実に三世の業とその報いとの因果関係を知る力、如実にすべての禅定や三昧の順序や浅深を知る力、如実に衆生の能力や性質の優劣などを知る力、如実に衆生の了解断定を知る力、如実に衆生の素性素質やその行為などを知る力、如実に人天などの諸々の世界に趣く行の因果を知る力、如実に過去世の種々の事を憶い出し知悉する力、如実に天眼を以て衆生の死生の時や未来の善悪の世界などを知る力、自らすべての煩悩が就きて、次の生存を受けないことを知り、また他のものが煩悩を断つのを誤らずに知る力)と、畏れることがない安穏で不動の境地にある。

仏のみに具わっている十八種のすぐれた特質があり、

一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲をもち、三念処(衆生が仏をほめたたえるとき、その心を喜びとし、衆生が仏をけなしたとき、その心に深く慈悲し、仏の教えに帰依した人としない人を別け隔てしない心)を持っている。

常に世間にあって、すべての物質的なものからできている身体の中で最も優れている。

私は、どのような罪によって仏を見ることができないのか?」と。

この言葉を説き終わって、また更に犯した罪悪を告白して許しを請え。

犯した罪悪を告白して許しを請い清浄になることを終わったならば、普賢菩薩は、また更に前に現れて、日常の立ち居振る舞いのときに、そのそばを離れない。

あるいは夢の中でも、常にその人の為に教えを説く。

この人は、夢から覚めて、仏の教えを聞きそれを信じることによって心にわく喜びを得る。

このようにして、昼夜二十一日を経て、その後に他を感化する作用が次々と伝わっていく力を得る。

教えを広める智力を得るために、諸々の仏や仏道修行者の説く言葉では言いつくせない意味の深い教えを、記憶して忘れない。

また、常に夢で釈迦牟尼と、それ以前に現れたといわれる毘婆尸(びばし)・尸棄(しき)・毘舎浮(びしゃふ)・拘留孫(くるそん)・拘那含牟尼(くながんむに)・迦葉(かしよう)の七仏を見て、ただ釈迦族の聖者の如来のみが、その人のために教えを説かれる。

この諸々の世尊は、それぞれに大乗経典を称賛するだろう。

その時に、仏道を修行する者は、また更に歓喜して、広く十方の仏を礼拝するだろう。

十方の仏を礼拝し終わったならば、普賢菩薩がその人の前に留まって、前世からの全ての善悪の行為によって現世で受ける報いや間接的な原因を教え説いて、

凶悪な全ての罪を隠さず告白させるだろう。

諸々の世尊に向かって、自らの口で犯した罪を隠さず告白せよ。

犯した罪を隠さず告白し終えたならば、すぐにその時に、諸々の仏の前に於いて、心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得るだろう。

この心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得た後に、東方の阿閦如来(あしゅくにょらい)と妙喜国を明らかに見るだろう。

このように、十方のそれぞれの諸々の仏の不思議なまでにすぐれている国土を明らかに見るだろう。

十方の仏を見終わった後、夢を見る。象の頭の上に、一人の金剛人がいて、金剛杵(こんごうしょ)を、全ての感覚や意識を生じまたそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官に突きつける。

六つの器官に突きつけた後、普賢菩薩は仏道を修行する者の為に、六つの器官から生じる迷いを断って清らかな身になる教えと、懺悔の教えを説くだろう。

このように、犯した罪悪を告白して許しを請い、一日から二十一日に至る。

仏の前に於いて、心を一つの対象に集中して動揺させない状態を保つ力の為に、また普賢菩薩の説法が荘厳であるために、

耳は徐々に障害なしに声を聞き、眼は徐々に障害なしに事を見、鼻は徐々に障害なしに香りをかぐだろう。

広く説くことは、妙法華経のようである。

この六つの器官から生じる迷いを断った後、心身は歓喜して、諸々の悪いことを心に思い浮かべることはなくなるだろう。

心をこの教えに専念させて、教えに従うだろう。

また更に、百千万億の他を感化する作用が次々と伝わっていく力を得る。また更に、百千万億の計り知れない諸々の仏を見るだろう。

この諸々の世尊は、それぞれ右の手を伸ばして、仏道修行者の頭をなでて、この言葉を言うだろう。

「素晴らしい、素晴らしい、すべての人間の平等な救済と成仏の教えを行ずる者、智慧・福徳・相好でその身を飾る心を起こした者、すべての人間の平等な救済と成仏を念じる者である。

私たちは昔、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心を起こした時、皆、またこのようであった。

おまえは真心を込めて失わないようにせよ。

我らは、この世に生まれ出る以前の世に於いて、すべての人間の平等な救済と成仏を行じた為に、今は清浄で遍くある正しい智慧を具えた身と成った。

おまえは、今また当然仏道を勤め修めて、善行を修めるのに積極的でない心の状態になってはならない。

この大乗経典は、諸々の仏の教えを納めた蔵である。

あらゆる方面、過去、現在、未来の諸々の仏の最も重要な眼目である。

過去、現在、未来の諸々の如来を生み出す種である。

この経典を受持しもっぱら読経する者は、すなわち仏身を持ち、すなわち仏事を行うことである。

当然知るべきである。この人は即ち諸々の仏の使者である。

諸々の仏や世尊の衣に覆われ、諸々の仏如来の真実の教えの子である。

おまえは、すべての人間の平等な救済と成仏の教えを行じて、教えの種を絶たないようにせよ。

おまえは、今東方の諸仏を細心に分別して観察し道理を悟れ。」

この言葉を説かれたとき、仏道修行者は、すぐに東方の計ることができないほど多くの全ての世界を見る。

大地の平らな様は、手のひらのようである。

“諸々の台地や丘、高くて大きい山や大きな丘、イバラなどの生い茂る荒れた土地はなく、ラピスラズリで地ができていて、黄金によって道が区切られている。 ”

十方の世界も、またこのようである。

この事を見た後に、すぐに宝石の樹を見る。

宝石の樹は、高く何ともいえないほど美しく、高さは五千由旬(35000Km)である。

その樹木は常に黄金や白銀を生じて、七宝によって厳かに飾られる。

樹木の下に、それ自身の宝石をちりばめた獅子座がある。

その獅子座の高さは、二千由旬(14000Km)である。

その獅子座の上には、また百宝が光を放つ。

このように、諸々の樹木およびその他の宝座や、一つ一つの宝座にみな百宝の光明がある。

このように、諸々の樹木およびその他の宝座や、一つ一つの宝座に皆五百の白象がいる。

象の上に皆、普賢菩薩がいる。

その時に、仏道を修行する者は、諸々の普賢を礼拝して、この言葉を言え。

「私に何の罪があって、ただ宝石の大地と宝座と宝樹をみて、諸々の仏を見ることができないのか。」と。

この言葉を言い終わったならば、一つ一つの宝座の上に、一人の世尊がいらっしゃるだろう。

姿が整っていて威厳があり趣深く繊細であり、宝座に座られている。

諸々の仏を見奉り、心は大いに歓喜して、また更に大乗経典を唱えて繰り返し読め。

大乗の力のために、空中に声がして賛嘆して言うだろう。

「仏法に帰依した男子よ、おまえはすべての人間の平等な救済と成仏を行じた事による現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行の因縁により、よく諸々の仏を見ることができた。」

今、諸々の仏や世尊を見ることができたといえども、

釈迦族の聖者の如来と、その分身の諸々の仏および多宝仏塔を見ることはできない。

空中の声を聞き終えた後、また仏道に励んで大乗経典を口に出して繰り返し読め。

大乗経典を口に出して繰り返し読むために、夢の中に於いて釈迦族の聖者の如来と、諸々の大衆とが耆闍崛山(ぎしゃくせん)にいて、

法華経を説き、絶対平等の真実の意義を説くのを見る。

教えが終わったならば、犯した罪悪を告白して許しを請い、仏を見ることを願い、

合掌してひざまずいて、耆闍崛山に向ってこの言葉を言え。

「如来世間第一の雄者は、常に世間にいらっしゃる。

私を哀れみ思いやるために、私の為に身を現したまえ。」

この言葉を言い終わって、闍崛山を見ると、七宝で飾られて無数の出家男子、自己の悟りのみを求める修行者、大衆がいるだろう。

宝石の樹が立ち並び、宝石でできた大地は平らである。

また極めて良い宝石の獅子座が敷設されている。

釈迦族の聖者の如来は、眉間の光を放たれる。

その光は広く十方の世界を照らし、また十方の計り知れない世界を通り抜ける。

この光の届く所の十方の釈迦族の聖者の如来の分身は、同時に雲のように集まり、言葉では言いつくせない、意味の深い教えを広く説くこと妙法華経で説かれているようである。

それぞれの分身の仏身は、紫金の色である。

身の大きさは果てしなく、獅子座に座られている。

百億無量の諸々の大菩薩を従者としている。

それぞれの仏道修行者の修行や実践は、普賢と同じである。

このように十方無量の諸々の仏や、仏道修行者の従者も、またこのようである。

大衆が雲のように集まった後、釈迦族の聖者の如来を見れば、全身の毛孔から金色の光を放たれている。

それぞれの光の中に、百億の様々な姿となって現れた仏がいらっしゃる。

諸々の分身の仏は、眉間の白毫の徳の高いりっぱな人相から光を放たれる。

その光は、釈迦族の聖者の如来の頭頂に流入する。

この姿を見るとき、分身の諸々の仏は、全ての毛孔から金色の光を出される。

それぞれの光の中に、ガンジス川の砂の数ほどたくさんの小さな塵の数のさまざまな姿となって現れた仏がいらっしゃる。

その時に、普賢菩薩は、また眉間の徳の高いりっぱな人相から光を放って、仏道修行者の心に入れる。

既に心に入り終わったならば、仏道修行者は、自ら過去の無数百千の仏の所に於いて、大乗経典の教えを銘記して忘ず読誦したことを思い出し、

自ら前世の姿を見て、はっきりと明らかに分かるであろう。

自他の過去世のあり方を自由に知る能力と同じであり、異なることない。

心の迷いや疑いが消え迷妄を脱して真理を悟り、他を感化する作用が次々と伝わっていく力や、百千万億の能力を得る方法手段を得るだろう。

心を一つの対象に集中して動揺しない状態から立ち上って、宝石の樹の下の獅子座に座られている全ての分身の仏の顔を見るだろう。

また、瑠璃の大地が、蓮の華々のように、下方の空中から湧き出すのを見るだろう。

一つ一つの華の間に、非常に微細なたくさんの数の仏道修行者が両足を組んで坐っていらっしゃる。

また普賢の分身の菩薩は、その集団の中にいて、大乗を讃えて説くのを見る。

その時に諸々の仏道修行者は、口をそろえて同じことを行者に教え、迷いを起こさせる原因となる六つの器官を清浄にするであろう。

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、仏を念じるべきである。」

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、教えを念じるべきである。」

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、僧を念じるべきである。」

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、在家や出家が過ちを防止するために守らなければならない禁制を念じるべきでる。」

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、布施を念じるべきでる。」

ある仏は説くであろう。「おまえは当然、天を念じるべきでる。」

このような六つの教えは、悟りを求めようとする心であり、仏道修行者を生む教えである。

おまえは今、当然、諸々の仏の前に於いて、過去に犯した罪悪を告白して許しを請うべきである。

計り知れない前世に於いて、目とその視覚の内的原因と外的原因によって、認識される物質や肉体に心を奪われた。

物質や肉体に心を奪われた理由のために、諸々の感覚の対象をむさぼり求めた。

感覚の対象をむさぼり求めた理由のために、女人の身体を授かり、何度にも渡り生まれ変った処で、諸々の物質や肉体に誘惑され執着した。

物質や肉体は、おまえの眼を乱して、肉親の間の情愛の奴隷となった。

そのために物質や肉体は、おまえを、欲界と色界と無色界の三界の間を、生まれ、また死んで、往来させる。

この物質や肉体の召使いとなった者は盲目であり、何も見ることができない。

今、大乗仏教の経典を声をだして歌うように読む。

この経の中には、十方の諸々の仏の物質的なものからできている身体は消滅しないと説かれている。

おまえは今、諸々の仏を見ることができた。これは明らかな事実か事実ではないのか?

眼とその視覚能力の善くない影響は、おまえを傷つけることが多い。

私の言葉を心から信じて、諸々の仏や釈迦族の聖者の如来に心を向かわせて、おまえの眼とその視覚能力の罪ととがを説け。

諸々の仏や仏道修行者の、一切の事物を空であると見通す智慧の眼の教えの水によって、願わくは煩悩を洗い去り、私を清浄にさせたまえ。

この言葉を言い終え、広く十方の仏を礼拝し、釈迦族の聖者の如来と大乗経典に向って、またこの言葉を説け。

「私が今懺悔した所の、眼とその視覚能力の重罪は、覆い隠され汚れて濁っていて、盲目であるために見ることはできない。

願わくは仏よ、衆生をいつくしみ苦しみを救う広大な慈悲によって、哀れみ慈悲によって護りたまえ。

普賢菩薩は、大乗の教法の船に乗って、広く全ての十方無量の諸々の仏道修行者を伴って、悟りの境地に導かれる。

ただ願わくは、悲しみ哀れんで、私の眼とその視覚能力の善くないことや、悪業によって生じた障害を悔い改める教えを聞かせたまえ。」

このように三度説いて、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけ、すべての人間の平等な救済と成仏の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないようにせよ。

これを目とその視覚能力の罪を懺悔(さんげ)する教えと名づける。

諸々の仏の名を呼び、焼香し花をまいて仏に供養して、すべての人間の平等な救済と成仏を思いめぐらす心の働き発し、絹ののぼり旗と傘を掛けて、

眼の過ちを説き、犯した罪悪を告白して許しを請うならば、この人は現世に、釈迦族の聖者の如来を見たてまつり、

及び分身と無量の諸々の仏を見て、数えられないほど長い間、死後におもむく苦悩の世界へ堕ちることはない。

大乗の力の為に、大乗の請願の為に、常に全ての陀羅尼菩薩と供に従者となるだろう。

この心の動きをするものを、正念と言う。

もしも、他の心の動きをする者を、邪念と言う。

これを眼とその視覚能力が、初めに受ける境界の姿と名付ける。

眼とその視覚能力を清め終わって、また更に大乗経典を見て読みそらで唱え、

昼夜六回、ひざまずいて拝み、罪を告白して許しを請い、この言葉を言え、

「私は、今なぜ釈迦族の聖者の如来と分身の諸々の仏のみを見ることができて、

多宝仏の塔の中の全身の遺骨を見ることができないのか?

多宝仏の塔は常に存在して、消滅しない。

私の眼は、穢れと悪とに満ちている。この理由のために見ることができない。」

この言葉を言い終わって、また更に罪を告白して許しを請え。

七日を過ぎた後、多宝仏の塔が、大地から涌出するだろう。

釈迦族の聖者の如来は、すぐに右の手で、その塔の戸を開かれるだろう。

多宝仏を見たならば、普賢菩薩が生身の形を現わときのような動揺しない状態に入られている。

一つ一つの毛孔から、ガンジス川の砂の数に等しい非常に微細な光明を放たれるだろう。

それぞれの光明の一つ一つに、百千満億のさまざまな姿となって現れた仏がいらっしゃる。

この姿を現すとき、仏道修行者は歓喜して、仏の功徳をほめたたえた詩によって塔の周りを右肩を向けて、時計回りに歩き礼拝するだろう。七度回り終わったならば、

多宝如来は大音声を出して、賛嘆して言うだろう。

「教えの弟子よ。おまえは今、真実に、巧みにすべての人間の平等な救済と成仏を行じ、普賢を心から信じて従い、目とその視覚能力の罪を告白して許しを請うた。

この因縁によって、私は、おまえのところにやって来て、おまえを明るく照らす。」

この言葉を説き終わって、賛嘆して言うだろう。

「素晴らしいことだ、素晴らしいことだ。釈迦族の聖者の如来よ。巧みに大乗の教法を説き、雨が万物をうるおすように大いなる教えを説いて、けがれと悪とに満ちている諸々の生命のあるものすべてに仏道を成就させたもう。」

この時に、仏道修行者は、多宝仏の塔を見た後、また、普賢菩薩の所に至り、合掌し敬って礼拝して言う。

「大師よ、私に罪や過ちを悔い改めることを教えたまえ。」

普賢は、また言う。

「おまえは、きわめて長い年月において、耳とその聴覚能力の内的原因と外的原因によって、外の声のあとを追い従った。

言うにいわれぬ美しい音声を聞くときには、心に迷いのもととなるものを生じ、耳障りな声を聞く時には、百八種の煩悩の害を引き起こす。

このような耳に害になるなるような、身に降りかかる災いの報いを得た。

常に耳障りな声を聞いて、諸々の対象にとらわれる心の動きを生じた。

煩悩のために誤った考えやあり方をして聴いたために、死後におもむく苦悩の世界、中央から遠く離れた土地、因果の理法を否定する誤った考え、仏の教えを聞くことができない処に、当然、堕ちるにちがいない。

おまえは、今日において、大乗経の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行となる一切経を、声を出して読んで覚えた。

この因縁によって、十方の仏を見たてまつる。

多宝仏の塔は現れて、おまえに真理を体得させた。

おまえは、当然、自ら自分自身の犯した悪を説いて、諸々の罪を告白して許しを請うべきである。」

この時に、仏道修行者は、この言葉を聞き終わって、また更に合掌して、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけて、この言葉を言え。

「遍くある正しい智慧を具えた世尊よ、現れて私に真理を体得させたまえ。

大乗経典は、人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取り除く主体である。

ただ願わくは、私を観て、私の説く所を聴きたまえ。

私はきわめて長い年月の間、今の身体に至るまで、耳とその聴覚能力の内的原因と外的原因によって、声を聞いて迷い、心をとらわれて、そこから離れられずにいたことは、まるでニカワが草に付いたようであった。

諸々の悪い声を聞くときには、煩悩の毒を心に起こし、あちらこちらに心をとらわれて、そこから離れられず、少しの間も留まる時がない。

この害のある言葉を出して、私の神経を疲労させ、死者が行くべき三つの場所(猛火に焼かれる火途、刀剣や杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途)へと落とされた。

今初めて悟り知って、諸々の世尊に向かって罪を告白して許しを請う。

すでに罪を告白して許しを請い終わって、多宝仏が大光明を放たれるのを見たてまつる。

その光は金色で、広く東方と十方に存在するすべての世界を照らされる。

計り知れない諸々の仏の身体は、純粋の黄金の色である。

東方の空中で、この言葉を唱える。

ここに仏、世尊がいらっしゃいます。名を善徳という。

また、無数の分身の諸々の仏がいらっしゃる、宝石の樹の下の獅子座に座り結跏趺坐していらっしゃる。

この諸々の世尊の全てが皆、普賢菩薩が生身の形を現わときのような動揺しない状態に入られ、皆この言葉を言って、褒めて言った。

「よく言った、よく言った。仏法に帰依した男子よ。おまえは今、大乗経典を唱えて読んだ。

おまえが唱えたものは、これこそ仏が対象を認識する時の五官および心の働きである。」

この言葉を説き終わって、普賢菩薩は、また更にそのために罪を告白して悔い改める教えを説くだろう。

「おまえは、前世の無量劫という長い時間に於いて、香りを貪っていたために、我にとらわれた意識や、前世の所業を内的原因として、現在の母胎に生じる最初の一念が、あちらこちらに心を奪われ、生まれては死に、死んでは生まれる苦しみと迷いの世界へ堕ちたのだ。

おまえは、当然、理想に達するための大きな乗り物の内的原因を、細心に分別して観察し、道理を悟るべきである。

自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとすることを、生ぜしめる内的原因とは、この世に存在する有形や無形の一切が、この世界の真実でありのままの姿であるとすることである」と。

この言葉を聴き終わって、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけて、またさらに罪を告白して許しを請え。

既に罪を告白して許しを請い終わって、当然、この言葉を言うべきである。

「釈迦族の聖者の如来に心から帰依いたします。多宝仏塔に心から帰依いたします。十方にいらっしゃる釈迦族の聖者の如来の分身の諸々の仏に心から帰依いたします」と。

この言葉を言い終わって、広く十方の仏を礼拝せよ。

「東方の善徳仏、及び分身の諸々の仏に、心から帰依いたします」と。

まるで眼で見るように、一人一人に心をこめて礼拝し、香と華によって供養し、

供養することが終わって、ひざまずいて、合掌して、

種々の詩によって、諸々の仏を賛嘆し、既に賛嘆し終わって、身、口、意の三業がつくる殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見を説いて、諸々の罪を告白して許しを請え。

既に罪を告白して許しを請い終わって、この言葉を言え。

「私は、前世の無量劫という長い時間に於いて、香り、味、触感を貪って多くの悪を生じさせた。

この因縁によって、計り知れない前世より、常に地獄・餓鬼・畜生・中央から遠く離れた土地・因果の道理を無視する誤った考え方などの諸々の善くない身体を受けた。

このような悪の行為を、今日隠さず告白し、諸々の仏と正しい教えの王に心を向かわせて、罪を告白して許しを請う」と。

既に罪を告白して許しを請い終わって、身体と心の働きを鈍らせることなく、また更に大乗経典を見て読みそらで唱えよ。

大乗の力のために、空中に声がして告げて言う。

「教えの子よ、おまえは、今十方の仏に向かって他者救済を大重視し、多くの人々を悟りに導く教えを賛嘆し説き、諸々の仏の前に於いて、自ら自分の過ちを当然説くべきである。

諸々の仏と如来は、おまえのいつくしみ深い父親である。

おまえは、自ら舌とその能力の善くないことや悪い行為を当然説くべきである。

この舌とその能力は、悪い行為をする想いに動かされて、事実や論理に合わないでたらめな言葉、真実にそむいて巧みに偽り飾る言葉、人を悪く言う言葉、二人の人に対し異なることを言って仲たがいさせる言葉、他人を悪く言う言葉、不実な言葉、因果の道理を無視する誤った考え方の言葉を讃歎し、無益な言葉を説く。

このような多くのいろいろな悪い行為は、闘いと不和を起こし乱しやぶり、教えを教えではないと説く。

このような多くの罪を今、告白して許しを請う」と。

諸々の世間第一の雄者の前で、この言葉を言い終わると、

両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけて、広く十方の仏を礼拝し、

合掌し長くひざまずき、当然、この言葉を言うべきである。

「この舌の過ちは、計り知れず果てしない。

諸々の悪い行為のとげは、舌とその能力から出る。

正しい教えを広げることを妨げることは、この舌が原因で起きる。

このような悪い舌は、現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を断つ。

道理にはずれ、複雑に多岐にわたりむやみに説き、因果の道理を無視する誤った考え方を賛嘆するさまは、火に薪をくべるようである。

あたかも猛火が、生命のあるものすべてを傷つけるようである。

毒を飲んだ者が、傷跡もなく死ぬようである。

このような凶悪で間違っている罪の報いは、当然、悪道に百劫千劫という長い時間、堕ちるべきである。

法を会得していないのに会得したように言い不実な言葉を言ったために、大地獄に堕ちる。

私は今、南方の諸々の仏に心を向かわせて、犯した罪を隠さず告白する。」

このことに精神を集中させる時、空中に声がするだろう。

「南方に仏がいらっしゃいます。名を栴檀徳(せんだんとく)と言う。

その仏には、また計ることが出来なおほど多くの分身がいらっしゃいます。

全ての諸々の仏は、皆、大乗経を説いて仏の教えに背いた罪を除きほろぼされる。

このような多くの人の罪を、今十方の計り知れないほど多くの諸々の仏と、衆生の苦しみを救う世尊に向かって、凶悪な全ての罪を隠さず告白し、偽りのない心で罪を告白して許しを請え。」

この言葉を説き終わって、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけて、また諸々の仏を礼拝したてまつれ。

この時に、諸々の仏は、また光明を放って仏道修行者の身体を照らして、

その心身を、自然に歓喜させ、

一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を発し、広く全ての者の心を動かす。

その時に、諸々の仏は、広く仏道修行者の為に、苦を取り除き楽を与える広大無辺な慈悲と、人の幸せを共に喜び平等に分け隔てなくみる教えを説き、また他者に優しい言葉をかけることを教え、身・口・意・戒・見・行の六つの点でお互いに敬い和合することを習得させる。

その時に、仏道修行者は、この諸々の仏からの最高の教えを聞き終えて、心は大いに歓喜して、また更に口に出して繰り返し読んだとしても、後で疲れて声が出ないことはない。

空中に、また何ともいえない美しい味わいがある声がして、このような言葉を言う。「おまえは今、当然、身も心も罪を告白して許しを請うべきである。」

身の罪とは、殺生すること、盗むこと、不倫な行為である。心の罪とは、いろいろな善くない事を思い描き、

殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見の十の悪い行為と、無間地獄へ堕ちる五つの罪(母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること)を作ることである。あたかも猿のように、またとりもちのように、あちらこちらに心を奪われて、広く全て迷いを起こさせる原因となる六つの器官の中に至る。

この六つの器官によって行われる善悪の行為の大枝と小枝と花と葉は、広く一切衆生が生まれまた死んで往来する世界と、その世界に存在する二十五種類の意識を持つ存在と、全ての生まれる所に満ちている。

また、邪見や俗念に妨げられて真理を悟ることができない過去世からの無知や、老いや、死や、苦を感じる十二の原因を、よく増長させる。

八つのよこしまな行い(邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定)や、正法を聞くことを妨げる八種の苦難(地獄・畜生・餓鬼・長寿天・盲聾瘖唖(もうろういんあ)・辺地・世智弁聡(せちべんそう)・仏前仏後)の中を経過しないことはない。

おまえは、今当然、このような悪や不善の行いの罪を告白して許しを請うべきである。

その時に、仏道を修行する者は、この言葉を聞き終えて、空中の声に問いたてまつる。「私はどの場所において罪を告白して許しを悔い改めることを実行すればいいでしょうか?」

その時に空中の声は、すぐにこの言葉を説く。「釈迦族の聖者の如来を、毘盧遮那遍一切処(びるしゃなへんいっさいしょ)と名付ける。

その仏の住む所を、常寂光(じょうじゃっこう)と名付ける。

如来の世界のように常住普遍の境地に達する修行をする場所、完全な主体的自我を完成させる修業をする場所、迷いがなく無垢清浄で姿かたちを消滅する修行をする場所、

安楽で苦を離れた楽の境地に至る修行の心身の姿に留まらない場所、有形無形の諸々のものの姿が見えない場所、仏道の修行により解脱して生死を超越した悟りの境地に入る場所、あるいは最高の智慧を完成させる場所である。

この五感によって認識される物質や肉体は常に存在するという教えのために、

このように、当然、十方の仏を細心に分別して観察し、道理を悟るべきである。」

その時に十方の仏は、それぞれ右の手を伸ばして、仏道修行者の頭をなでて、このような言葉を言われる。

「よろしい。よろしい。仏道に帰依した男子よ。おまえは今、大乗経典を唱えて読んだために、十方の諸々の仏は、懺悔の教えを説かれた。

仏道修行者の行うところは、煩悩を絶つことはなく、迷いの海に留まることもない。

心を細心に分別して観察し、道理を悟るための心などない、煩悩のために誤った考えに従う想念がきっかけで起きる。

このような状態の心は、真実でないものを真実であると誤って考えることがきっかけで起きる。

空中の風を留めておく所がないようなものである。

このような万物の姿は、生じないし消えもしない。

何が罪であり、何が幸運であるのか?自分の心それ自身が空であれば、罪も幸運もその主体はない。

すべての存在は、このようにとどまることなく破壊されることもない。

このような罪を告白して許しを請うならば、心を細心に分別して観察し、道理を悟るための心などない。

この世に存在する有形や無形のものは、有形や無形のものの中に存在しない。

この世に存在する有形や無形の一切のものは、煩悩の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達することであり、一切の苦を滅し尽くした境であり、煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地である。

このような姿を大懺悔(だいさんげ)と名付け、大荘厳懺悔(だいしょうごんさんげ)と名付け、無罪相懺悔(むざいそうさんげ)と名付け、破壊心識(はえしんしき)と名付ける。

この罪を告白して許しを請うことを行う者は、心身が清浄であり教えの中に留まることなく、まるで流れる水のようである。

一瞬の間に普賢菩薩と十方の仏を見ることができるだろう。」

その時に、諸々の世尊は、修行者の為に、大きな慈悲の光明によって見ることのできる、無相の法をお説きになる。

仏道修行者は、究極の真理である空を説かれるのを聞きたてまつる。

仏道修行者は聞き終わって驚き恐れることはない。

その時によって、仏道修行者の悟りによって確立した境地にすぐに入るだろう。

仏は、阿難に告げられた、このように修業することを、懺悔(さんげ)と言う。

この懺悔(さんげ)とは、十方の諸々の仏や諸々の偉大な仏道修行者が行う所の懺悔の教えである。

仏は、阿難にお告げになった。

仏がこの世を去った後、仏の諸々の弟子が、もしも、悪や不善の行いの罪を告白して許しを請うことがあるならば、当然、ただ大乗経典を見て読んでそらで唱えるべきである。

この大乗経典は、それこそ諸々の仏の眼である。

諸々の仏はこれによって、肉現(人間の持つ眼)天眼(天人の持つ眼)慧眼(声聞辟支佛の持つ眼)法眼(菩薩の持つ眼)仏眼(仏の持つ眼)の五眼を得られた。

仏が持つ法身、応身、報身の三種類の身体は、大乗の教えから生じる。

これは仏教が真実であることを示す印であり証明である、広大な海のような知慧を完成した悟りの境地の不変の証明である。

このような広大で深い智慧の海の中から、巧みに三種の仏の清浄な身体を生じる。

この三種類の身体は、人間や天人にとって幸福をもたらす福田であり、供養を受けるのに最もふさわしい者である。

もしも、大乗仏教の経典を唱え読むならば、当然、知るべきである。この人は仏の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を備え、諸々の悪を永久に消滅して、仏に従って智慧を生じると。

その時に、世尊は、このように詩を説いて言われた。

もしも、目とその視覚能力に悪意があり 悪業によって生じた障害で眼が不浄ならば

当然、ただ大乗経を唱え 究極の真理を常に心に深く思うべきである

これを眼の罪を告白して許しを請うて 諸々の身・口・意によって行われた不善の行為を滅尽すると名付ける

耳とその聴覚能力は鉦や太鼓を打ち鳴らしてときの声をあげるのを聞き 和合の正しい道義を乱しやぶる

これによって狂った心を起こす様は まるで愚かな猿のようである

当然大乗経を唱え 一切のものがすべて空であるというその姿やありさまと一切の執着を離れた境地の教えを細心に分別して観察し道理を悟るべきである

永久に全ての悪を滅尽するなら 天耳によって十方の音を聴くことができる

鼻とその臭覚能力は諸々の香りに執着して 愛着心に従って諸々の触覚が起きる

このような心を狂い惑わせる鼻は 愛着心に従って諸々の煩悩を生じる

もしも、大乗経を唱え 教えが真実や道理にかなっていることを細心に分別して観察するならば

永遠に諸々の悪の行為から離れて 来世においてまた悪の行為を行うことはない

舌とその能力は五種類の 人をあしざまに言う善くない行為をする

もしも、自らを管理しようと願うならば 仏道に励んで楽を与え苦を除くことを修行し

真に生死を超越した悟りの境地に入る教義を思え 諸々の区別を前提として思考することをしてはいけない

心とその能力は猿のようであり 少しの間も留まる時がない

もしも、心とその能力の悪や誤りを打破することによって、真実の教えに帰服させたいと願うならば 当然仏道に励んで大乗経を唱え

仏が悟りを開かれた時の身体と 力と、教えを説くときに自信にあふれ何ものも怖れないことを思い描かねばならない

身体は教えに触発されて活動を始める精神的能力の宿る主体であるが 塵が風によって転がるようなものである

煩悩を起こさせるもとになる眼・耳・鼻・舌・身・意に任せて自由自在に振る舞い 意のままであり何ものにもとらわれない

もしも、この悪を消滅して 永遠に諸々の煩悩を離れ

常に煩悩の火が消された状態の安らぎの境地の城に留まり 安楽であって淡白でこだわりがなくあろうと願うならば

当然大乗経を唱えて 諸々の仏道修行者を生み出す母を思い描かねばならない

計ることが出来ないほど沢山の勝れた教え導き悟りに近づけるための巧みな方法手段は 真実の本性を思うに従って得られる

このような六つの教えを 六情根と名付ける

全ての悪い行為によって生じた海のように広がった障害は 皆、精神が、対象の形態にとらわれて行う誤った判断によって生じる

もしも、罪を告白して許しを請おうと願うならば 姿勢を正して座りこの世界の真実でありのままの姿を思え

多くの罪は霜や露のようにはかない 仏の智慧は太陽のように煩悩や罪障を消し去る

このためにこの上ない誠の心で 六つの感覚である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の罪を告白して許しを請え。

この詩を説き終わって、仏は阿難にお告げになった、

おまえは、今、この六根の罪を告白して許しを請い、普賢菩薩を細心に分別して観察し道理を悟る教えを持って、広く十方の諸々の天人や世の人の為に、広く自他の区別を前提として思考して説け。

仏がこの世を去った後、仏の諸々の弟子が、もしも、大乗経典の教えを銘記して忘ず、見て読みそらで唱えて、解説することがあるならば、

きっと静かな場所や、若しくは墓や、若しくは樹下や修行に適する所に於いて、大乗経典を見て読みそらで唱え、すべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという大乗の教義を思うだろう。

記憶している能力が強いために、私(釈迦牟尼仏)の身体や、多宝仏塔や、十方の分身の数え切れないほど多くの諸々の仏や、普賢菩薩や、文殊師利菩薩や、薬王菩薩や、薬上菩薩を見ることができる。

教えを恭しく敬うために、諸々のいうにいわれぬ美しい華を持って空中に留まり立って、教えを銘記して忘れず修行するものを賛嘆し恭しく敬うであろう。

ただ大乗経典を唱えるために、諸々の仏や仏道修行者は、昼夜において、この仏の教えを銘記して忘れない者を供養されるだろう。

仏は、阿難にお告げになった。

私は、多くの仏などの賢人が出た現在の一大劫の、諸々の仏道修行者、及び十方の仏と、大乗経典の絶対の真理の教義を思う理由のために、

百万億阿僧祇劫という非常に長い時間に於いて、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの世界で犯す罪を取りのぞく。

この極めて優れた、罪を告白して許しを悔い改める教えによるために、今十方に於いて、各々仏になることができた。

もしも、すぐに一切の真理をあまねく知った最上の智慧を成就しようと願う者は、

もしも、現在生をうけている身体に於いて、十方の仏と普賢菩薩を見ようと願うならば、当然、清く身体を洗い清めて、清い衣を着て、

多くの仏に奉る香を焚き、人の中から離れた、静かで修行に適した場所に居るべきである。

当然、大乗経典を唱え読み、すべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという大乗の教義を思うべきである。

仏は、阿難にお告げになった、もしも、心をもつすべての人々で普賢菩薩を細心に分別して観察し道理を悟りたいと願う者は、当然、このように心の中で観察をするべきである。

この心の中で観察する者を、正観(しょうかん)と名付ける。

もしも、このように心の中で観察しない者は、邪観(じゃかん)と名付ける。

仏が、この世を去った後、仏の諸々の弟子で、仏の言葉を心から信じて従って、罪を告白して許しを請うことを行う者は、当然、知るべきである。この人は、普賢の修行を行っているのだと。

普賢の修行を行っている者は、不吉な現象や、悪の行為による報いを見ることはない。

心をもつすべての人々がいて、昼夜六回十方の仏を礼拝し、

大乗経典を唱え、諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないといったあり方を説く教えを思うならば、一度指を鳴らす間に、百万億阿僧祇劫という非常に長い時間において、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの世界で犯した罪を取りのぞく。

この修行を行うものは、真の仏の弟子であり、諸々の仏より生ずる。

十方の諸々の仏、及び諸々の仏道修行者は、その受戒の師となるだろう。

これを仏道修行者が受けて保つべき大乗の戒律を備える者と名付ける。

受戒や懺悔をする必要なく自然に成就し、全ての人や天人の供養を受けるだろう。

その時に修行者が、もしも、仏道修行者が受けて保つべき大乗の戒律を備えようと願うならば、

当然、合掌して、人の中から離れた静かで修行に適した場所に居て、広く十方の仏を礼拝し、諸々の罪を告白して許しを請い、自ら自分の過ちを説くべきである。

そして、その後で、静かなところに於いて、十方の仏に向かって、この言葉を言え。

「諸々の仏と世尊は、常に世間に住んでいらっしゃる。私は、仏に成ることを妨げる身や口や意によって行った悪い行為のために、大乗経典を信じていると言えども、仏をはっきりと見ることができない。

今、仏を信じてその力におすがりいたします。

ただ願わくは、釈迦族の聖者の如来、遍くある正しい智慧を具えた世の中で最も尊い者よ、私の受戒の師となりたまえ。

文殊師利よ、広大な慈悲の心を備えたものよ、願わくは物事をありのままに把握し真理を見極める認識力によって、私に清浄な諸々の仏道修行者の教えを授けたまえ。

弥勒菩薩よ、衆生をいつくしみ苦しみを救う勝った広大な慈悲の太陽よ、私を哀れむために、また私に仏道修行者の教えを受けさせ聴かせたまえ。

十方の諸々の仏よ、現れて私に真理を体得させたまえ。

諸々の偉大な仏道修行者よ、各々のその名をお呼びいたします。この悟りを求める心を起こした勝った者よ、心をもつすべての存在を慈悲によって護り、われらを助け護りたまえ。

今日、大乗経典の教えを銘記して忘れません。

あるいは、命を失い地獄に堕ちて、計り知れない苦悩を受けようとも、決して仏法をそしり非難しません。

この因縁や現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行の力によって、今、釈迦族の聖者の如来よ、私の受戒の師となりたまえ。

文殊師利よ、私の師となりたまえ。

未来の弥勒よ、願わくは私に教えを授けたまえ。

十方の諸々の仏よ、願わくは、私に確かに知らせたまえ。

偉大な徳を備えた諸々の仏道修行者よ、願わくは私の友となりたまえ。

私は今、大乗経典の深遠で不思議なまでにすぐれている教義によって、仏を信じてその力にすがり、教えを信じてその力にすがり、僧を信じてその力にすがる」と。

このように三度説け。

仏と、教えと、僧を信じてその力にすがり、

次に、当然、自ら誓って、六重の法(殺生をしない、盗みをしない、邪淫を行わない、嘘をつかない、酒を飲まない)を受けるべきである。

六重の法を受けることを誓い終わって、次に、仏道に励んで何物にも捕らわれず淫欲を断つ修行をし、広く他者の救済のためにはたらく心を起こし、八重の法(殺生をしない、盗みをしない、邪淫を行わない、嘘をつかない、酒を飲まない、人の過ちを言いふらさない、自らを褒めたり他人をそしらない)を、当然自ら受けることを誓うべきである。

この誓いを立て終わって、静かで修行に適した場所に於いて、多くの名香を焚き、華を散じ、

全ての諸々の仏および諸々の仏道修行者は、大乗経典を供養をして、この言葉を言え、

「私は、今日に於いて、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心を起こした。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行によって広く全てを悟りの境地に導く。」

この言葉を言い終わると、また更に全ての諸々の仏と諸々の仏道修行者の前にひれ伏し頭を地につけ足元を拝し、大乗経典の教義を思え。

一日乃至二十一日の間、若しくは出家や在家であっても、受戒の師である必要もないし、諸々の指導者である必要もない、純粋な受戒や懺悔の作法をしなくとも、

大乗経典の教えを銘記して忘ず、見て読みそらで唱える力の為に、普賢菩薩の助けがある為に、これが十方の諸々の仏の正しい教えの要点であるので、

この教えによって、自然に五つの教えである、戒(言行を慎むこと)・定(心の動揺を抑えること)・慧(澄み切った理知を働かせること)・解脱(因果から開放されること)・解脱知見(解脱、自覚することそのものを身体に備えること)を成就する。

諸々の仏や如来は、この教えから生じ、大乗経に於いて、将来仏となることを予言され記されることを得たのだ。

このために、智慧のある者よ。もしも、自己の悟りのみを求める修行者が、仏・法・僧の三宝に帰依すること、及び在家の信者が守るべき五つの戒め・出家生活にならって守る八つの戒め・

出家男子の守る比丘戒・出家女子の守る比丘尼戒・男子見習僧の守る沙弥戒・女子見習僧の守る沙弥尼戒・女子見習と尼僧の中間段階の守る式叉摩尼戒や、諸々の規律にかなった起居動作を壊し破り、心性が愚かで一切の道理にくらく、よくない邪悪な心の為に、多くの諸々の戒や作法や規律を犯したとする。

もしも、過ちを除き滅ぼし煩悩による苦をなくし、またもとの男子出家僧となって、修行に専念し教えを守ろうと願うならば、

当然、仏道を勤め修めて大乗経典を読み、第一義の空の教えを思え。このような空の教えを悟る智慧により心と対象世界とを統一させよ。

当然知るべきである。この人は時々刻々の間に、全ての罪による穢れを永遠になくし尽くすことを。

これを出家して修行に専念する人が仏教の戒めを不足なく十分に備え、諸々の規律にかなった起居動作を備えると名付ける。

きっと人と天人の全ての供養を受けるだろう。

もしも、在家の信者の男性が、諸々の規律にかなった起居動作を犯しよくないことを行ったとする。

善くないことを行うとは、いわゆる仏の教えの過ちや悪いところを説き、出家者と在家者の男女の犯した悪事を論じ解説し、人のものを盗んだりみだらであるのに、自分の言動を反省せず恥ずかしく思わないことである。

もしも、罪を告白して許しを請うて諸々の罪を取り除こうと願うならば、当然、仏道に励んで大乗経典を見て読みそらで唱え、究極の真理を思うべきである。

もしも、王や大臣、祭式と教育を独占する特権階級の者たち、在家男子、長者、宰相や官吏など、このような人々が、貪欲で満ち足りることなく、五逆罪(1寺塔や経像などを破壊すること、2三乗の教法をそしること、3出家者の修行を妨げること、4小乗の五逆の一つを犯すこと、5業報を無視して悪行をおこなうこと)を犯し、大乗経をそしり非難し、十悪業(殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、嗔恚、邪見)を行ったとする。

この大きな悪に対する報いにより、現世で悪事をした結果、死後におもむく苦悩の世界へ堕ちるであろう。このことは急に降る激しい雨よりも速い。

当然必ず、阿鼻地獄に堕ちるべきである。

もしも、この悪業によって生じた障害を消滅させ除法しようと願うならば、自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じる思いを生じ諸々の罪を悔い改めなければならない。

仏は言った。どのようなことを王族や武士や在家男子の懺悔の教えと名づけるのか。

王族や武士や在家男子の懺悔のの教えとは、当然、心を正しくして、仏と教えと僧を非難せず、出家することを妨げず、淫欲を断つ修行をする人のじゃまをするべきではない。

当然、記憶し続けて六念(念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天)の教えを修行するべきである。

また当然、大乗の教えを銘記して忘れない者に食物や衣服を給仕し供養し、必ず礼拝するべきである。

当然、非常に奥が深い経典と、諸々の事物は因縁いんねんによって仮に和合して存在しているのであって固定的な実体はないといったあり方を説く教えを、正しく記憶し絶えず忘れないようにするべきである。

この教えを思う者、これを王族や武士や在家男子の第一の懺悔を修養すると名づける。

第二の懺悔とは、父母に孝行を尽くし、師と目上の者を恭しく敬う、これを第二の懺悔を修養することと名づける。

第三の懺悔とは、正しい教えによって国を治め、人民をよこしまな方向へ曲げて導かない、これを第三の懺悔を修養すると名付ける。

第四の懺悔とは、毎月の八、十四、十五、二十三、二十九、晦日には、諸々の領地に命令を出して殺生を禁止させ、このようの教えを修養させる。

これを第四の懺悔と名づける。

第五の懺悔とは、当然、前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考えを深く信じ、絶対平等の真実の道を信じ、仏は滅することはないと知るべきである。

これを第五の懺悔と名づける。

仏は、阿難にお告げになった。

未来の世に於いて、もしも、このような懺悔の教えを修習することがある時、

当然、知るべきである。この人は自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じることを身に付け、諸々の仏に守護されて、遠くない未来に於いて 一切の真理をあまねく知った最上の智慧を成就するに違いない。

この言葉をお説きになったとき、一万の天子が、衆生を救うために、一切の法門の智慧を見ることが出来る眼を得た。

弥勒菩薩などの諸々の大菩薩と阿難は、仏のお説きになった説を聞き奉って歓喜して教えを奉じそれを行った。

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